仙台・青葉まつりの由来

ORIGIN

仙台・青葉まつりの
歴史をひも解く

江戸時代の仙台祭

大絵図(仙台市博物館蔵)
江戸時代後期の東照宮祭礼(仙台祭)の「渡物」。
全国的にも珍しい、山鉾を描いた「大絵図」が土産物として出版されていた

仙台東照宮建立の翌年、明暦元年(1655)に二代藩主伊達 忠宗 ただむね 公の命により東照宮例祭「仙台祭」が始まりました。藩主在国の年に限って祭を開催し、 神輿みこし渡御とぎょ の先導として18町組、23町*の商人町に命じて 山鉾 やまぼこ (他に わたしもの ねりもの 、屋台、オマツリ、壇尻だんじりなど様々な呼び名がある)を出すこととしたもので、これが仙台・青葉まつりの起源となります。
*河原町・南材木町、穀町・南鍛冶町、荒町、田町、南染師町、北目町、柳町、南町、新伝馬町、大町一・ニ丁目、大町三・四・五丁目、肴町、立町、国分町、二日町、北鍛冶町、本材木町、北材木町
安政年間(1850年代)までに開催間隔の変更や「き山」から人が担ぐ「き山」への変更などがありましたが107回ほど開催され、藩主が神輿渡御を拝する「君主御覧」も二代 忠宗 ただむね 公から十三代慶邦よしくに公まで46回ほど記録されています。
仙台祭の盛況は全国的にも名高く、江戸時代に作られた全国のお祭りの番付表「諸国御祭礼番付」では天下祭と呼ばれた江戸の山王祭、神田祭、常陸の水戸祭に次いで仙台祭が東之方四番目に位置づけられています。
仙台祭の特徴はスケールの大きさと贅美を尽くした山鉾にあります。山鉾の飾り付けは和漢の故事や謡曲、歌舞伎などを題材とし、3体から5体の6尺ほどの人形を中心とした飾り屋台で、豪華なものになるとその製作費は三千両を要したといわれます。
二代目十返舎一九が書いた『奥州仙臺年中行事大意』(1847)には「一ヶ年に練物五六十づつ出る。一つの練物に人数百二三十人づつも出る。練り物の高さ二三丈(6〜9ⅿ)づつもあり云々」とあり、いかにスケールの大きな祭であったかが窺えます。

明治時代以降の青葉祭

招魂祭礼全図 明治21年(仙台市博物館蔵)
20台の山鉾が描かれ、曳き山と舁き山があることがわかる

仙臺招魂祭山鉾図 明治25年(仙台市歴史民俗資料館蔵)
山鉾巡行の様子を描いた錦絵。
中央の青い羽織の人物は仙台の“福の神”・仙台四郎

盛況を誇った仙台祭も幕末・維新の混乱を経て、東照宮例祭に山鉾がでることはなくなりましたが、明治4年(1871)の天長節(明治天皇の誕生日)に24台の山鉾が出たのを始め、藩祖伊達政宗公を祀る神社として明治7年(1874)に創建された青葉神社例祭(政宗公の命日である5月24日に開催)や招魂祭など、明治時代に8回ほど山鉾が出た記録があります。
このうち、明治18年(1885)に開催された「政宗公没後二百五十年祭」は5月23~25日にかけて開催、各町内から山鉾が巡行したほか、国分町の男女100人が神楽囃子かぐらばやしに併せてすずめ踊りを踊ったことが知られており、現在の仙台・青葉まつりの直接の原型となったまつりということができます。

名掛町

新傳馬町

国分町

仙臺開設三百年紀念祭誌 明治32年(仙台市歴史民俗資料館蔵)
山鉾の大きさがわかる貴重な写真

明治32年(1899)の「仙台開府三百年祭」には11台の山鉾が出ましたが、この時は据置型の山鉾で、長い歴史を誇った豪華な人形山鉾が造られたのもこの年が最後となります。
昭和10年(1935)には「伊達政宗公没後三百年祭」が青葉神社神輿渡御を始めとして盛大に行われ、天守台には伊達政宗公の騎馬像が設置されます。また、昭和31年(1956)から昭和42年(1967)まで、仙台商工会議所等が主催となって青葉神社神輿渡御を伴う「仙台青葉まつり」が開催されていました。